月さえも眠る夜〜闇をいだく天使〜

14.痛み〜クラヴィス



「めずらしい事だな。いつも朝議には欠席か遅刻するそなたが、こんなに早くここへ来るとは。これからもそうであると在り難いのだがな」
いつもの会議室。
そしていつも一番乗りのジュリアスが、うっそりと席にすわっている闇の守護聖を見つけ、にこりともせずそう言った。
「たまたまだ。おまえに在り難がってもらったところで、何の意味もない」
微動だにせず、いかにもどうでもいい、といった風情のクラヴィスに、ジュリアスの血が朝っぱらから頭に昇る。
「なにっっ!」
そなたはだいだい、と続く声を遠くに聞きながら、
よく、まあ、いつも同じ反応ができるものだ、と、半ば呆れつつ、この者には『あきらめる』という事が無いのだろうか、と考える。
それとも諦めねばならぬものなど、はじめから望まぬ、ということか。
僅か五才のときからこの聖地の住人であった彼なりの保身。
それもまた、哀れではあるが。
と、そこまで考えて、ふと思いつく。
では私は、あれにとって諦めねばならぬもののうちに入っていないのか。迷惑な話だ……。
思考とは裏腹に、ふ、と笑みがもれる。
目ざとくそれを見つけ、ジュリアスが
「何が可笑しいっ!」
とさらに声を高くする。
しかし、クラヴィスはそのときすでに再び己の思考の内であった。

◇◆◇◆◇

私は、すべてを諦めてしまった。
そう、あの尊き人を支えながら、ただ退屈な闇の奥に沈み淡くぼやけた遠い想い出を時折弄ぶ以外のすべて。
そして、それさえも今はすでに失われたのだ。
ではいったい、今再び浮き上がるこの記憶は何だ?
その鮮やかさは何故だ?

「アンジェリークは体調が悪くて休むそうです。」
いつのまにか部屋には全員がそろい、係りの者に偶然伝言を頼まれたランディがそう言ったところだった。

―― 無理もない、か。
心が疼いた。
アンジェリーク
あの者は、忘れていたい遠い昔を思い起こさせる。まるで、揺さ振り、叩き起こすように。
金色の髪を太陽に愛撫され屈託の無い笑顔を見せていた飛空都市での日々に、それは幾度となく思ったことだ。
なのに今再び、月さえも眠る夜のような闇の中、自分に良く似た痛みを抱えながら、静かに微笑むそのひとに何故こうも心が荒れるのか。
あまりの痛々しさに人知れず、せめてかりそめの安らぎを、と夜毎力を送るたび
己の心は逆にささくれ立つような気がしていた。
そして、昨夜、あの森の湖で大樹に腰掛け天をみつめる金の髪のひとをみつけた時は、心臓をえぐられるような想いが襲った。

なぜ、おまえは、おまえの知らぬ所で私の心を荒れさせるのだ?

そして重なり合った瞳の色の、その悲しさ
おまえは、自分で気付いてはいないのだろうな。その瞳の色の深さも、危うさも。
そう思った時、私はおまえを、抱き締めずにはいられなかった。

◇◆◇◆◇

「クラヴィスっっっ!」
突然のジュリアスの声に、とりあえず目を開け、ちらりとそちらを向く。
「たまに顔を出したかと思えば居眠りとは、いったいどういうつもりだ!」
クラヴィスはまたか、と思い
「べつに」
とだけ応える。
「もう良い。やる気がないのならいるだけ無駄だ。出て行け」
「そうか」
慌てる仲間達を気にも留めずのそっと外へ向かい歩いて行く。
「このような時だけ素直にききおってっっ!!」
そんな声が廊下に響き、クラヴィスの耳にも届いたが、彼にとっていつものように、どうでもいいことだった。

◇◆◇◆◇

外に出ると、雨はあいも変わらずしっとりと辺りを濡らしている。
―― 天使の涙、か。
しばし立ち止まり細かい水の微粒子をみつめ、そして歩き出す。

―― おまえが欲しい
確かにそう思った。
心の痛みを消すが如く、
強く
激しく
求め合った。
そして、一度だけ名を呼んだ。
他の誰でもない。 切なげに吐息を漏らす、腕の中のそのひと自身の名を。

激しく唇が唇を塞いだ。
まるで、名は呼ばないで。
そう言うように。

―― 愛して抱かれるわけじゃない。
そう、伝えたかったのかもしれない。

そして、気付いた。
自分が彼女の向こうに彩やかな想い出をみていたのではなく、彩やか過ぎる想い出の前に立つ悲しい瞳をした彼女自身を見ていたことに。
心が疼く。
心が荒れる。
おまえは、何を望んでいる?
かりそめの安らぎならいくらでも与えることはできる。だが。
おまえが真に望むもの、それは。
闇の奥にある、永遠の ―― 眠り ――?

静かに眠るその人の傍に、いつまでも、ついていてやりたかった。

だが、おまえは、それを望むまい。
心が疼いた。
体が冷えてくる。
それはきっと、このけぶる雨のせいだけではない。


◇「15・嵐」へ ◇
◇「彩雲の本棚」へ ◇
◇「月さえも眠る夜・闇をいだく天使――目次」へ ◇